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『役行者(えんのぎょうじゃ)』修験道は日本版道教だったか? [読書(歴史)]

ちょっと間があきましたが、『役行者(えんのぎょうじゃ)』の第2弾です。

第一弾は、『役行者』えんのぎょうじゃは日本の民間医療の祖かをご参考下さい。


役行者―修験道と海人と黄金伝説

役行者―修験道と海人と黄金伝説

  • 作者: 前田 良一
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞社
  • 発売日: 2006/10
  • メディア: 単行本




金と水銀と不老長寿


(P211)役小角を「賀茂役君小角かものえんのきみおづの」と呼ぶ。(略)小角は賀茂氏である。賀茂氏は高鴨神社に仕える神官である。(略)ほかにも「鴨」を名乗る古い社があるが、発祥の地はこの高鴨神社である。高鴨神社の祭神を味耜高彦根神あじすきたかひこねのかみという。(略)「すき」は鉄製農具を意味しているから、(略)小角は金属に密接な関係を有する賀茂氏を出自としている。葛城山麓にはかつて朝町銅山が稼働し、「明治二五ねんごろには坑夫が二〇人くらい働いていた」という。


地図サイトで調べてみると、たしかに、加茂、鴨のつく地名が多いです。

(P231:研航一部改)外岡(龍二)氏が記す、大場磐雄氏説を引用
この南伊豆の加茂郡は、大和国葛城郡の鴨地方を本拠とした古氏族、賀茂一族によって開拓されたとし、神事に長けていた賀茂一族は、子の伊豆地方のみならず全国各地へ、その氏神を奉祭しつつ、移住していったものと論考している。(略)賀茂の地名の分布が、伊勢(三重県の中心部)-参川みかわ(三河。愛知県東部)-伊豆(静岡県東部と伊豆諸島)-安房(千葉県南部)-上総(同中央部)へと広がっている状態を見て、これらの地への賀茂一族の移住は海上ルートが利用されたもの、と指摘している。


へえ、って感じですね。

(P239:研航一部改)金山と共に伊豆半島には製鉄遺跡が実に多い。外岡龍二氏によると一二カ所に及ぶ。そのすべてが加茂郡である東海岸に分布している。製鉄は海岸の砂鉄を集めて行われた。


鉄、つまり武器や農機具。
これは当時の産業界を牛耳っていたということだろうか。

(P306:研航一部改)船の防腐塗料のために必要な朱を求めて、海人たちはヤマトの山に入った。丹砂を採った現場でたき火をしたおtき、熱せられる丹砂が白く光る液体になるのを不思議に思って眺めたことだろう。水銀の発見である。(略)丹砂の二次産物である水銀が目当てに変わる。(戻って)317年に成立した道教の教理書『抱朴子』には「仙薬のうち最上のものは丹砂。その次は黄金」と書いてある。中国の皇帝たちは競ってこの水銀を求めた。そのまま飲めば猛毒である。多くの皇帝が若くして中毒死している。金箔を混ぜた清酒がある。これも道教思想に基づく。(略)修験道は「日本版道教」といわれるほど中国の道教に酷似している。呪文がほとんど同一である。役小角自身も明らかに道教系の呪術師であった。(略)水銀は高価な物であった。「水銀マネー」を調達するために吉野にやってきたのが神武天皇である。(略)やがて日本に仏教が伝来(538年)する。仏像は黄金でできていた。金を仏像にメッキするのに、水銀が必要である。(水銀アマルガムという)。(略)水銀の下からは黄金が出るというのである。(略)金峯山と呼ばれるようになった。(略)黄金産出は有名で、中国でそれを聞いたマルコ・ポーロが『東方見聞録』に「黄金の国ジパング」と書き、これを読んで航海に出たのがコロンブスである。コロンブスは死ぬまでカリブ海の島々を、アジアの一角だと信じていた。


金メッキするのに、水銀がいるんだ、、、へえ。
当時不老長寿の薬と勘違いされていた(何人もの皇帝が、期待の逆に死んだらしいです。後世になって、道教思想でも訂正されたようですが)水銀を求めていたことで、日本にいろいろな知識や文化が伝わってきたんですね。

山伏のスタイルを思い起こすといい。腰に巻く「貝の緒」は坑道を降下するザイルである。尻に当てる「引敷ひっしき」は鉱山民が尻あてとして使用している。(略)野外で火を焚くのは修験道だけだ。これは精錬の火に由来するのではないだろうか。
金峯山には黄金というこの世の最高価値が土中に横たわっていたのである。


これがこの著者の推測ですが、修験道の山伏が金をほる産業にも関わっていたと思うと、なんだかおもしろいですね。
「恒産なければ恒心なし」と孟子がいいましたが、修業には、まずはお金も必要だったということかな。



忍者と修験道と道教



(P106)「忍術書」と思われる書物が、(略)『日本書紀』の602年10月条に登場する。「百済の僧勧勒来けり。よりて暦の本および天文地理の書、あわせて遁甲方術の書」と記されている。「遁甲方術の書」とは忍術の書であろう。方術は道士が操る神仙術であるから、遁甲も道子が操ったのだ。日本にもたらしたのが百済の僧であることからも、これらの奇怪な兵術は仏教や道教などと共に日本に入ってきた。異能の兵術は寺で伝授されたのだ。


忍者の話が日本書紀に?


(P107)日本における忍術の起源は諸説あって定まらない。中国の道士である徐福が熊野に上陸したとき、日本にもたらしたという。 (P111)甲賀流忍術も伊賀流忍術も、ルーツは小角にたどり着く。甲賀流忍術は滋賀県甲賀氏の飯道山から始まったという。飯道山は小角が開山した。甲賀忍者はすべて飯道山の「甲賀流忍術学校」の卒業生である。小角が「創立者」であり、「初代校長」である。


おもしろいですね。道士は道家の修行者ですから、忍術が日本に来たのは、当時不老長寿の薬と勘違いされていた水銀を、徐福にさがさせた、秦の始皇帝のおかげだったわけか。

しかも役行者が忍術学校開いていた、、、、

じゃあ、修験道と忍術と、道教(道家)は密接な関係があるということか。

この飯道山の山伏が伝授して始まったのが甲賀忍者である。


忍者といえば代表的なのが、「隠形遁身の術」だ。追われた忍者が手で印を結びながら呪文を唱えると、煙が突然立ち上がり、姿がパッと消えてしまう。そのとき唱える呪文を「九字」という。  臨兵闘者皆陣列在前(りんびょうとうしゃかいじんれつざいぜん) この呪文は修験道の呪文で、元来は道教の呪文である。四世紀の初めに中国で成立した道教の教科書『抱朴子』に次のような呪文が記されている。  臨兵闘者皆陣列前行 忍者・山伏の呪文と違うのは最後が「前・行(在・前)」で終わるところである。翻訳すると「敵の刃物にひるまず戦う勇士たちが前列に陣どっている」(本田済『抱朴子』)ということになる。この呪文を「六甲秘呪」という。9文字の呪文だから「九字」という。この呪文は山における災いを防ぐための呪文である。 (略)「九字」は修験道が道教から大きな影響を受けた証拠として語られるが、忍者が「九字」を使うの山伏に習ったからだ。もともと山の危険を回避する呪文だったが、追っ手から身を隠す術として変化したのだろう。


やっぱり、密接な関係があるんですね。この記述からすると。
ところで、道教ってなんだっけ?

背景にある道教について


道教は中国で生まれた民俗宗教だ。仏教が伝来するまで道教が主流だった。道教は不老長生を得るのが究極の目的とされ、不老長生は名山に入って修行することで得られると考えた。神仙術である。しかし、山中での苦行と努力の割にはなかなか達成できない。そこで登場するのが練丹術である。薬を作ることによって不老長生を達成しようというものだ。これらの術を極めた人を仙人と呼び、空を飛ぶことが可能になると信じられていた。道教で、仏教の寺に相当するのが道観であり、僧侶に相当するのが道士(女性は女冠)である。


道教、というのは、こういうものなんですね。

(P247)斉明は道教に傾倒していたらしく、多武峰に道教の寺院である「天宮あまつのみや」、またの名を「両槻宮ふたつきのみや」を築いたことで知られる女帝である。修験道が「日本版道教」といわれるほど道教に酷似し、吉野がしばしば道教の神仙境になぞらえられる点から、吉野宮も天宮も道観であったことが考えられる。


おお、日本に道教が入っていたという具体的な記述です。
それに、吉野といえば、八咫烏が活躍した場所にきわめて近いではないですか。

このあたり、神秘的な感じがしますね。

次回は、修験道と陰陽師と天皇家とのつながり?にふれられた部分を取り上げます。
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『役行者』えんのぎょうじゃは日本の民間医療の祖か [読書(歴史)]

役行者(えんのぎょうじゃ)にまえから関心があって、ふと、こんな本を読んでみました。


役行者―修験道と海人と黄金伝
説

役行者―修験道と海人と黄
金伝説

  • 作者: 前田 良一
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞 社
  • 発売日: 2006/10
  • メディア: 単行本



まえから、山伏を始めた人だとは知っていました。
それ以上、まずは、本文の引用から役行者をご紹介します。

役行者さんは、公文書に名前が載っているので、実在のようです。
またの名を、役小角(えんのおづの)といいます。

漢字が多いので、名前としてわかりやすく身近にするために、さんづけで書いていきます。

役行者とは


(P27)『役行者本記』の現代語訳を銭谷武平氏の『役行者伝記集成』の 引用でご紹介しよう。(略)要約した。
 役行者は舒明天皇六年(634)1月1日、大和国葛木上軍茅原郷矢 箱村で生まれた。父は十十寸麻呂とときまろ あるいは大角といった。母は白専女 しらたおめといった。父は出雲国加茂の人で、婿養子と して大和にやってきた。母の出自は高加茂氏であった。父も母も同族 であった。父は小角がうまれたとき、離縁して出雲に帰った。
(略)天武天皇一三年(684)、51歳のとき、相模の八菅山で薬師 仏の秘法を修めた。(略)
文武天皇三年(699)、66歳のとき、葛城の神に密告され、伊豆 大島に流された。(略)文武天皇四年(700)10月、小角67歳の とき死刑を宣告された。小角は我が身はすでに仙人、わが心もすでに 仙人であると言って、刀を身に受けた。振り下ろした刀は段々に折れ 、小角の体は少しも傷つくことはなかった。(略)
文武五年(701)一月、小角六八歳のとき、罪が許され、文武天皇は 小角の労苦を慰労して黒色長冠を下賜し、国師とした。


出自ははっきり書かれています。

「薬師仏の秘法」っていうのは、東洋医学のことでしょうか。

(P14)小角の呪術は天下に鳴り響いていたと思われる。弟子だっ た広足は後に天皇の医療と薬の処方を司る典薬療の長官になっている 。 小角は広足の密告で失脚するが無実だった。(略)民衆を喜ばせたり 、不安に駆り立てたりして扇動することは禁じられていた。


弟子が天皇家で医者やっていますから、医療(時代的に東洋医学ですよね)に詳しかったのは間違いなさそう。

(P15)役行者に注目した人が民間に存在した。奈良・薬師寺の僧 景戒けいかいである。(略)『日本 霊異記りょういき』にかなり詳しく 記している。(略)八世紀から九世紀の初め頃に編纂されている。( 略)
小角は生まれながらにして賢く、博識という点では郷里の第一人者だ った。(略)常に願うこととして、五色の雲に乗って果てしなき大空 の外に飛び、仙人の宮殿で賓客とともに遊び、一億年の長寿が得られ る花園に起居して、養生の気を吸うことを願った。(略)


「養生の気を吸う」って、いまでいう導引術のことだろうか?

(P18)鬼神を自在に使役することができ、多数の鬼神に「大和国の金 峯山と葛木山の間に橋を架けよ」と命じた。神たちはみな嘆き憂えた 。藤原宮で天下を治め賜う天武天皇に、葛木山の一言主大神が人に乗 り移って「役優婆塞うばそくが天皇 の転覆を謀っている」と讒言した。天皇は役人に命じて小角を捕らえ させた。しかし、小角は験力を使うので捕らえることができなかった 。そこで、小角の母親を人質に取った。このため小角は、母親を助け るため、自ら出頭して捕らわれた。
 こうして小角は伊豆に流された。


しかし、本人の行動となると、空を飛んだり、呪術を使ったり、、、、
実際の本人は、どんなことをなした人だったんでしょう?

平安時代後期の大学者大江匡房おおえのまさふさ (1041~1111年)が、『本朝神仙伝』に「役小 角伝」を記している。(略)
小角は吉野山と葛木山の間に橋を架けようとしたという(石橋)。( 略)はなはだ短気で、怒りっぽかったという。(略)小角は工事を早 くするよう一言主神を激しく責めた。(略)「顔かたちが恥ずかしい から、昼間は工事ができない」と言ったが、小角は許さなかった。こ のため一言主神は小角が謀反を企てていると朝廷に訴えた。


怒りっぽかったらしい?

『役行者顛末秘蔵記』は、(略)小角の死後、摂津で小角にあったとい う商人が現れた。小角はいつもと違って、錫杖も持たず、鉄下駄も履 いていなかった。そこで門弟らが深仙で棺を開いて調べてみた。中に は錫杖も着衣も鉄下駄も入っていたが、小角の姿は消えていた。
こうした現象を道教では尸解仙しかいせん という。つまり、仙人になって天に昇り、永遠の生命を 得たのである。


仙人でもあったわけですか。
ということは、道教・道家の修行者でしょうか

それにしても、「妖惑」って、何したんだろう?

これはどうやら、体制側(国)からみて「妖惑」だったらしく、国にとってあまり都合がよろしくない行動をとっていた、ということのようです。

本人の記述が残っていないので、その後、役行者さんの行動を追いかけるように活動して、奈良の大仏を建立するのに大きな力となった、役行者さんより34年後の668年生まれと言われている、行基(ぎょうき)さんの行動から、筆者は、役行者さんの行動を推測することができる、としています。

行基の記録から推測する、役行者



(P59) 役行者(小角)が足跡を残したところには、行基が跡を追うように足 跡を刻んでいる。行基は小角が開基した山上ヶ岳頂上の蔵王堂(現在 の大峯山寺本堂)を修築し、吉野山にやましたの蔵王堂(現在の金峯 山寺本堂)を造営している。(略)奈良の大仏は、行基の勧進(民衆を 動員し、寄付をつのること)によって建立されたが、計画では 紫香楽宮しがらきのみやの甲賀寺に 建立される予定だった。(略)飯道山という役小角が開基した修験道の 霊山の麓にふもとに、大仏が鎮座する構想だった。


甲賀寺っていうのは、甲賀忍者の里にあります。
後の章ででてきますが、忍者の祖でもあるとの説があります。

(P61)仏教は一般民衆の苦悩を救うために伝来したのではない。(略)国 家鎮護の教えとして伝来した。(略)東大寺や法隆寺は学問寺として出 発した。僧侶になりたくても、難しい国家試験に合格しなければなら なかった。今でもそうだが、漢字がびっしり並んだ経巻など、民衆に はちんぷんかんぷんだった。
そうした中で、民衆の中に入り、民衆の苦悩を救おうとした仏教者が 奈良の都に現れた。それが行基である。仏教が内在する深遠な哲学を 説こうというのではない。困っている人があれば、話を聞いてやり、 励ましの声をかけた。病に伏している人があれば、薬を手渡し、治療 を施した。病院も安心して暮らせる社会福祉制度もあるわけではない から、多くの人が行基の周辺に集まったことだろう。それが国家には 不穏に見えた。「道路に散らばって、みだりに罪業と福徳のことを説 き、徒党を組んでよくないことを構え」というふうに見えたのだろう 。(略)行基集団が政府と関わりなく、自前で針灸、外科、按摩術など 、さらには本草薬草の類を一般大衆に施していた姿が、充分にうかが われる(略)。その行動は政府から賞賛されてもよいはずなのに、結果 としては法外の徒として指弾、弾圧を被ったのである。
こうした行為を元正天皇の詔は「妖惑」であると明言している。
さすれば、小角の「妖惑」も、福祉活動にほかならないことになる。


「妖惑」は、民衆の心や体の問題を手助けする活動だった、国から見ると、国以外の人に頼ることになり、不都合だったんですね。

まだ日本の国が定まっていなくて、国も民衆を面倒見ていないわりに、民衆の暴動を恐れていたのです。

(P65)困窮した民衆は山中に亡命した。そこには農民だけでなく、様々 な職種の人たちが駆け込んだようだ。奴隷もいれば、博打うちもいた 。兵器も隠していた。(略)寺の規律もゆるんでいた。(略)神社も 荒廃していた。
行基の「亡命集団」は「道教集団」であったようだ。(略)日本は中 国から様々な文化を学んだが、道教だけは取り入れなかったとされる 。だが、実際には道教思想が日本に入っていたことをこの(聖武天皇 729年の)詔は裏付けている。


行基さんも、そして筆者想像するに役行者さんも、道教に基づいた行動と思想があって、福祉とは東洋医学による治療だったんでしょうか。

中国ではこの時代より前に、華佗が世界で初めて麻酔を使った手術をしていますから、医療としては相当進んでいたんでしょう。

筆者の説ですが、日本にも道教が入っていたんですね。

(P69)天皇は政策を大転換したのである。行基は天皇の求めに応えた。 「行基集団」が大仏建立に動いたのである。
(略)世界最大の金銅仏である。そのためには行基の民衆動員力、財力 、それに技術力を欲したのであろう。(略)「奈良の大仏」である。


おお、行基さんは実に柔らかいですね。
国と融和して、歴史に残る事績を残したわけです。

役行者さんも、同じように、面倒見てもらえない公家ではない大勢の人々の健康を助けようとしたんでしょうか。

役行者の説明は、次回に続きます。
このあとの掲載予定記事です。

背景にある道教について


金と水銀と不老長寿


忍者と修験道と道教


修験道と陰陽師


大海人皇子 おおあまのみこと修験道


越智氏と天皇家と北畠氏


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