『こだわらない、でも流されない』1分で読める老荘哲学からのメッセージ [読書(エッセイ・コラム)]
いくつかのテーマに分かれていて、それぞれにこれまで、早島正雄氏が老荘哲学にもとづいて語った中で、具体的な短い一言が並んでいます。
その中でも私がとくに気に入ったのは、第3章「人間関係について」のなかにあったこれ。
良いことをしても
半分の人はほめ
残り半分の人は批判するものだ
徳川家康という人物は、小説によってよく書かれたり悪く書かれたりします。
例えば童門冬二の『直江兼次』では、情け容赦のない狸じじいですが、東京新聞、中日新聞夕刊掲載の安倍龍太郎『下天を謀る』では、人の情のわかるくせのない大物です。
さらに『直江兼次』の中で主人公は、薪役人の子供が名家に養子に入って、さらに主人に重用されているのを理由に、どれだけよい判断や改革をしても批判にさらされます。やっかみです。
歴史物は主人公(主役)は大きく良い人でも、脇役では悪い人になるのです。
人生の主役は
あくまでも
あなた自身である
主役の自分を悪い人にする必要はない。
それでも、悪く言う人は必ずいるのも、必ずいるわけです。
そんな人の存在も、認められたら、大収穫です。
そういう、大きな目で自分を見てみようと、早島正雄氏は、またそのエッセンスをえらんでこの本をまとめた早島妙瑞氏は伝えたいのではないでしょうか。
『段』幸田文さん:父の祝宴準備はドラマチック [読書(エッセイ・コラム)]
幸田文さんは、きれいな言葉の文として草柳大蔵さんおすすめ、タイトル作は、短い言葉でぽんぽんと話が展開する、一大「お勝手」スペクタクルでした。
幸田文さんの父、幸田露伴が老?を押して永年手がけてきた、松尾芭蕉の作品への評釈集が、今夜にも仕上がろうとしていた。
助手の小橋さんの
「おめでとうございます」
という声が聞こえた。
小橋さんがこちらの部屋へ出てきた。
(略)私にも改まって脱稿の喜びが述べられた。
なんだか勝手違いでおかしくてしようがないのをこらえて、
「あなたも長い間ご苦労さまで」
と尋常な挨拶をした。
それだけでは先方ははなはだ物足りなげに、
「先生にお祝いおっしゃいませんか」
と催促する。
「だって、ここのうちの習慣ではいつも黙ってひっそりしているのよ。
お祝いなんて云ったことないわ。」
「そうですか。でもまあ今度はちょっとご挨拶なさったらどうでしょう。」
押しかえすような、もりもりした云いかたである。
わたしはこの言い方にたいする「もりもりした」というのが、いまでもなんだか新しいような気がします。
雰囲気伝わってきますよね。
全編、こういう家庭内のちょっとした出来事が、とてもダイナミックに描かれているのです。
しかし、私の無感動より小橋さんの昂奮のほうが分量が多かった。
翌日になると私はいくらかそれに誘われたし、翌々日はまたもっと余計に誘われて(略)またその次の日あたりは、
「うちの例にないことではあっても、世間の常識から云えばしごとの切り目に祝うほうがあたりまえなのかもしれない。
喜びごとは喜べばいいじゃあないか」
とどことなくそんな弾みもついてきて、はじめのあたりまえごとがだんだん祝いごとに切りかわりそうだった。
(略)評釈脱稿の喜びは私から大林さんに伝わって、二倍の大きさに膨らんで私に返って来た。
その場で、心ばかりの祝いごとをするからと私は申し出で、むろん快く受け入れられて、八日の午後にと約束ができた。
ついに、いきおいがついて、祝宴をすると言ってしまいます。
-その日の酒はどうしよう、献立はどうしよう。
そんな女っぽいことで喜びの表現方法を考えるのを、どうしようもなかった。
じつに女性らしい、昔の?今も?思いにいたっていきます。
そして、「献立」のために、市場に買い出しに行きますが、終戦後間もないので、「ヤミ市」なわけで、買うには売り手のにいさんと丁々発止することになります。
「待ってにいさん、あたし生きているのにしてもらいたいのよ。」
ごまかされる心外さより、文句なしに生きているえびがほしかった。
男はずいと立ちあがって、ものも云わずにこちらへ凄むと、新聞紙をひっくりかえした。えびが水のなかへぽとぽとと落ちた。
運悪くだか運よくだか、一ツが紙の端へひっかかった。
とっさに彼の腹が読めて、私はちゃっと、引っかかりえびをつかもうとした。
(略)
「死んでるって云うのけ?」
「そんなこと云ってやしないわ。ただ生きてぴんぴんしてるのが欲しいって云ってるんだわ。」
こわいくせに口がつるつるしゃべるのだった。
この一途な思い、、、そして「つるつるしゃべる」という表現がぴったり。
このときはまわりでみていたプロの料理人に助けられて、「勝ったぞという気がした。」わけですが、まあ、はじめの無感動からくらべると、ずいぶんと違う心境まで来ていますよねぇ。
そして支度にかかり、「酒」(御酒:ごしゅ、といってます。きれいな表現ですね)を出すのですが、ここは臨場感たっぷりに描かれています。
そして、祝宴のコーディネートにたいする入れ込み方がすごい。
私は知っている、食事が出るまえの席は人数(ひとかず)が増えるごとに話に調子がついて、高調子なやりとりが続いて一トしきりすると、今度は逆におちついてくるものだ。
へたをするとそのまま湿りつく場合もあるし、潮のさすように時を切って上向きになる席もある。
酒を運びだすには耳がいるのだ。
調子の弾んだ盛りに出す、落ち口に出す、落ちきって出す、上向きはなに出す、いつ出してもいいようなものが酒だが、きっかけを見て運びだすと、後の給仕や料理の出し方が楽になる。それを私は知っていた。
知っていながら、二度その折りをはずしていた。
使いに出した娘が帰ってくるのを待っているのだった。
べつに娘に酒を出させようとしているわけではないのです。
なぜ、酒を出すのに娘が帰ってくるのを待つのか???
これがまた、戦後をよく映し出していて、この盛り上がりをみごとにオチに結びつけるんです。
て、事実らしいので結びついてしまったのですが。
小橋さんが、狭い台所へ顔を出した。
「奥さんまだですか。ぼくちょっと様子見に来たんですが、やあそれえびか、これはご馳走だ。」
そう云われると、ぷつんと私の枷がはずれて、ひょっと気が弾んだ。
「そろそろ出しましょうか。」
そうなのだ、なにもいつまで娘を待ってることはない。どうせ返ってくるにきまってることなのだし、どんなに手間どったにしろこれより手間のとりようがないいっぱいの時間なのだもの。
というわけで娘を待ちきれずに、お酒を出してしまうのですが、、、
がらっと明いた。返って来たな、-かまわず芽紫蘇を置いていた。そして、突然、はっと来た。
夢中で一足に飛んでそこの茶の間。-まっ青な娘の顔が肩で喘いでいた。
「-かあさん、-」
もはや飲んでしまったあとかという問いのかわりに、娘の目と頸がぎこっとしゃくった。
ばあやがコップの水をぶるぶるさせて差し出した。
歯が当たってかちかちと、水をこぼしたなり娘はそこへへばって泣き出した。
見る見る私は狂暴になるような感じがした。
「どの位?」
(略)
「え?どの位?」
青隈がえぐれたような顔へ、乙女の涙がつながって流れている。
「二合でだめなの。」
くなくなとまたへたばる。メチールである。薬屋へ試験を頼んであったのだった。
メチルアルコールは毒性が強く、飲むと失明または死亡することがあるのです。
試験結果を待ちきれずに、勢いで出してしまったんですね。
飲んだ幸田露伴、小橋さん、大林さんとも「多少の障害を被りはしたけれど、事無く済んでよかった。」
わけですが、静かなところから、一度プライドをかけた盛り上がりを見せ、そしてドンと落ちるこのエッセイ、本人がお酒を飲むわけでもないのに、女性らしい立場ですっかり主役。
目に浮かぶような表現で、臨場感たっぷりのサスペンスでした。
もう50年もまえのエッセイですが、他のも読んでみようかな。
「ちょっと、ペン、貸してよ」英語での9通りの言い方 [読書(エッセイ・コラム)]
(『草柳大蔵著:きれいな敬語 羞かしい敬語―美しい言葉の人になる7章』
を読んで)
外国語には、敬語やそれにあたるものがない、というのを聞いたり、思ったりすることがあります。
しかし、外国語にも、最高の敬語、心の言葉、があるのです。
「ちょっと、ペン、貸してよ」
を英語で言う場合、ごく日常的な表現から丁寧語による表現まで数段階あるの
です。
研航より:ここで、草柳大蔵氏があげている、九つの表現を使った、クイズで
す。
1.「続きを読む」を押して答えを見てください。
2.お時間のある方は、一番丁寧な表現をあててください。
3.さらにお時間のある方は、もっとも日常的な表現をあててください。
4.面白みを感じた方は、九つすべてを丁寧な順番に並べてみてください。
答えは、
最高の敬語 [読書(エッセイ・コラム)]
(『草柳大蔵著:きれいな敬語 羞かしい敬語―美しい言葉の人になる7章』 を読んで)
敬語というと、言葉の使いかたばかりに目がいきがちです。
しかし、「心の言葉」ですから、心遣いが会話に現れれば、それはひとつの敬語といえるでしょう。
草柳氏は、相手に尋ねたことが失礼でなかったか、少し時間がたってからたずねる下記のやりとりは、最高の敬語だと考えています。
二人の女性がローマのコーヒーテラスでエスプレッソを楽しんでいました。
そこへ、上品なイタリアの婦人が近寄ってきて
「あなた方、チネーゼ(中国人)ですか。」
と尋ねました。
海外での日本人が数少なかったので、どこの国の人でも日本人と中国人の区別がつかないことが多かったのです。
「いえ、ジャポネーゼです」
日本の女性が答えると、貴婦人は
「失礼しました」
と言って、少し離れた自分の席に戻りましたが、彼女はそのバールを立ち去るときもう一度、二人の日本女性の席に立ち寄って尋ねました。
「さきほど、あなた方にチネーゼかと聞いたことが、あなた方のプライドを傷つけましたか。もし、そうでしたらお詫びします」
これは最高の敬語だと、私は思う。
言葉は「もう一人のあなた」であると同時に、「もう一人のあなたをつくる」力を持っているのです。
できそうでできないと思うのです。
自分から、「失礼でしたらお詫びする」こと。
- 自分はちょっと間違えただけ
- 日本人と中国人は、欧米人から見て似ているから仕方ない
- 自分は間違っていない、と思いたい
- 相手に謝るという、負けるような行為をしたくない
私も昔アメリカで一人旅をしていたときに、街の小さなレストランや、店などで、なんども中国人に間違えられました。
中国の方に対する偏見はありませんでしたが、あまりなんども間違えられるので、なんだか気分がよくなかったことを思い出しました。
声をかけた相手の女性に配慮できるのは、このイタリアのご婦人の磨かれた「心」のありよう、自分にとらわれない、我執のない心からでしょう。
こんな気持ちで相手に接していれば、自然と、敬語を使おう、学ぼうとするのではないでしょうか。
自律的な人ほど言葉をマスターする [読書(エッセイ・コラム)]
(『草柳大蔵_きれいな敬語羞かしい敬語』(草柳大蔵著)より)
草柳氏は、「「敬語」なんて知らなくても別に生活に支障がないからいいでは
ないか」という若者に、そうじゃないんだと、世界の中で思考力も感性もない
弱い存在になってしまうんだという、情報工学の専門家、西垣氏の言葉を借り
て、言っています。
「コンピュータ関係の言語世界は、よく言えば口語的、悪く言えば、幼稚で、古典的な言葉の教養を踏まえることのない世界なんです。」
「古典的なものの中に息づいている日本語の様々な財産を失って、グローバリゼーションの潮流の中にほうり出されたとき、我々は、思考力も感性もない、全く弱い存在になってしまうのではないか」
(文化庁発表『情報化時代の言語能力』情報工学専門 西垣通氏)
そして、外国語を学ぶ心構えや日々の行動と、敬語を学ぶ・話すことは、同じ
だと。
「ドイツ在住の日本女性が言うには、(中略)若い学生が留学してくるが、三年もすると綺麗なドイツ語を文法どおり話す(中略)、十人が十人とも、見事な日本語で話す、とのことである。」「その逆も真で、悪い癖のついたドイツ語を話す日本人は、日本語をしゃべらせてみると日本語も癖だらけで聞き苦しい、とも言った。」
「どうやら母国語がしっかりしていたほうが外国語が身につきやすいというのは正しいらしく」
「(英会話の先生である松本道弘氏も)日本人の英語能力の不足、たとえば会話ができないというのは、英語が流暢に話せるかどうかという以前に、日本語で的確に話せないことが原因している。そこから鍛え直さなければならない」とも言っている。」
「日常使っている共通語を正確に語序どおり話せる人が「敬語」を楽々と話す
のである。」
外国語も、敬語も、そして、仕事も、自分を律する意識の確かな人にできることであるという見解です。
「仕事の段取りがきちんとしている人は、敬語も英語もうまい、といえる。」
「自分を律する美意識の確かな人が言葉を自家薬籠中のものにしてしまうということである。」
本には書かれていないのですが、これらは才能ではなく、つまり、敬語の意味を考え、学ぼうと、使う努力をする志こそが、仕事の段取り・敬語・外国語、どれを学ぶことをとっても、大切なのだと訴えていると、私は思いました。
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Autonomic person by Miho
敬語:集団としてのおしゃれ [読書(エッセイ・コラム)]
集団としてのおしゃれ1
集団としてのおしゃれ、って、敬語とどう関係があるのでしょうか。
「心の言葉」を、大勢の人が使ったり、使わなかったりしたときの、世の中へ
の影響を、二つの例から考えています。
ここはその一つめ。
「2001年9月11日(略)同時多発テロ(略)、ABC放送は特別番組で「遺族の思い」を特集した。」
「ジェニングス氏(※)は(略)はカメラに向き直ると言った。」
「(略)バーバラ(※2)はビデオを使っ てインタビューしませんでした。また家族に”今のお気持ちは?”とも聞かなかった。」
「私たちABC放送の記者たちは、数年前に話し合って、こうしたときに不幸な人たちにマイクを突きつけるのはやめようと申し合わせたのです。”今のお気持ちは?”なんてバカな(dumbest)質問をするのは」
(中略)
「(日本では)「えひめ丸」のときも池田小学校のときも、「いま、どんなお気持ちですか」のダムベストな声を聞かされたのである。」
「この国は、社会全体が自動制御装置を失ったのであろうか」
(※:研航注:ピーター・ジェニングス氏。アメリカABC放送の看板キャスターだった。ブッシュ大統領が追悼の辞を述べた。) (※2:研航注:バーバラ・ウォルターズさん。全米に名の知れたアンカー・レポーター)
大リーグ放送をみていると、海外のインタビューはレベルが高いのか、ぽんぽんとリズムよく進んでいくのを見かけます。
「心の言葉」をグループでおこなう。 そうすれば、より多くの人に、心の言葉が伝わっていく。
この話は、放送局という多くの人に伝わる具体的な例でした。
集団としてのおしゃれ2
「「タメ語」というのがある。身分の上下関係なしに、友達のような口を利くことである。昔からあった。(中略)クチバシの黄色い学生の間にも伝染して、(中略)」
「「きょうの授業、なかなかよかったすよ」
「怒ったね、教師は。あたりまえである。」
「どんな教師でも、生徒に対しては知識と経験の先達である。
その蓄積したものをカリキュラムとして体系化し、学生が職業についてから困らぬように渡すことを職分の内容としている。
「それを「よかったすよ」と勤務評定 のようにいう。」
「別に学生のほうに悪気があったわけではない。」
「日もすがら夜もすがらタメ語を使っているので、教師という”目上”に対して制御装置が働かなかったのである。」
会社にはいるとよくわかりますよ。
仕事をよく知っている先輩に、
「先輩、なかなかですね」
と言ったら、口ではそうか、とか言っても、心の中で「生意気なやつ」と頭きて教えてくれなくなります。
仕事だから、先輩は後輩に教えて当たり前、なんて思っていると、会社に固有の情報は、参考書も塾もないので、気づけば、会社で「あいつは何も知らない」と言われるやつになってしまうのです。
ちなみに言うと、先生も、この場面で怒れることが大事で、つまり、面倒をみてあげる気概があって、はじめて怒れるわけですが。
で、著者は、この現象について、それほど意地悪な見方はしていません。
「別に学生のほうに悪気があったわけではない。」
「日もすがら夜もすがらタメ語を使っているので、教師という”目上”に対して制御装置が働かなかったのである。」
「つまり、ケイタイとメールのおかげで、知識の幅が限定され、彼らの間には、「知らないこと」が多くなりつつあるのだ。」
え、なんで、ケイタイとメールが…
というのは、今は、
「コミュニケーションのツールが電話かEメールに集中する
(※文=手紙が減っている)、つまり、
(※軽く使えるけど、軽い、あまり丁寧ではないツールだから、というものあって)
人間関係を結ぶ相手が自分と同等か年下の人に多くなる。
勉強でもスポーツでも、自分とドッコイドッコイか自分よりも弱い対象を相手にしていると、自分自身はいつまで経っても成長しないか、ときには退歩するものなのだ。」
:(※)は研航注
上の人とコミュニケーションが不足すると、知識の幅が狭くなってしまう、のは、先に会社の例をあげましたが、あてはまるようです。
最後に、著者は社会的な影響に話をつなげます。
「「知りすぎた不幸」もある
が、それは、大抵の場合、個人の人生に
起こる現象である。」
「「知らなかったゆえの不幸」
は、社会現象として集団の中
に起こるのではないか。」
そして、敬語の社会における意味を結論付けています。
「だからこそ、情報社会の中で、「敬語」はいかに位置づけられるか、という問題が生起する」
前の「心の言葉」で、一人ひとりへの敬語の必要性を語り、
この記事では、大勢の人が敬語の心の言葉を使う必要性を語りました。
次の項でもう一度、個人に戻って、
- どうしたら敬語が学べるか、
- どんな人なら学べるのか、
- 学ぼうとする気持ちは、自分をどう変えていくのか、
「心の言葉」があること [読書(エッセイ・コラム)]
(草柳大蔵著:きれいな敬語羞かしい敬語を読んで)
敬語が社会の潤滑油であるとは、よく言われます。
潤滑油は、なにに効くのでしょうか。
(高田敏子さんの座談での話より)
- 伝達の言葉
- 心の言葉
ということです。
次にあげる二つの例は、「心の言葉」(シンボル、に近い)を使ったときと「伝達の言葉」(サイン、に近い)。を使ったときの、反応の違いから説明してくれています。
例1:「”お茶を飲みなさい” と言われたときの返事は”はい”ぐらい。」
「でも”どうぞお茶を召し上がれ”と言われれば、”ありがとうござます。”という風に今度は感謝の言葉が出ますね。」
「何かそういう意味で敬語というものの、ある必要性みたいなものを私は感じるわけです。」
「心の言葉が添わることで、何か優しさとか楽しさとか美しさとか……。それから会話自体も少し敬語が入った方がイントネーションとか響きが美しくなるのではございませんか。正しい敬語の場合は……。」
そうですよね。「召し上がれ」といわれたら「どうも」くらい自然に出ます。
マジックですね。
『きれいな敬語 羞かしい敬語』洗練された日本の子供たちへの思い [読書(エッセイ・コラム)]
少し前に、文化庁が敬語を新しく5つに分類すると発表しました。
なんで、いま、敬語?
と思ってたんですが、草柳大蔵さんが書かれたこの本を読んで、腑に落ちました。
こんな話が載っています。
東京銀座四丁目の交番、渋谷ハチ公前の交番
でのおまわりさんの感覚では、
そうで、
著者は現状を説明しています。さらに、
「動物はサインしかわからないけれど、人間はシンボルが使える」
「シンボルの主な表徴は言葉である」
「表現力が豊かだとさまざまに自分を説明することができる」
「言葉を失った人は次第に動物に近くなってゆくからサインしか送れなくなる」
「人間の特徴であるシンボルとしての「礼」や「敬語」
を忘れた今の大人はもう手遅れだが、子供には罪がない」
「教育を立て直して、彼ら自身が洗練された日本人として次の時代を迎えられるようにしてあげたい。」
YAHOO!の辞書(大辞泉)によると
サインは合図など、シンボルはある意味をもつ記号。
敬語が使えなくなると、合図しかできなくなってしまうのか…。
そういえば、話が飛びますが、『ダヴィンチ・コード』のラングトン教授の専門は「宗教シンボル(象徴)」でした。ダヴィンチからのメッセージを受け取ろうとして、話は展開していくのでした。
はなしを戻しますと、この先、著者は
いくのですが、自分の側にひきよせるポイントとして、
をあげて、具体的な例をあげて説明していきます。
次回の記事で、紹介していきます。
『Web2.0が殺すもの』殺されないように読んでおきましょうか [読書(エッセイ・コラム)]
- 作者: 宮脇 睦
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 2006/09
- メディア: 単行本
を読みました。
タイトルの「殺す」という字を見て、おだやかじゃないな、と感じて、それでもWEB2.0てナンだ?????疑問符いっぱいだったこともあって、読んでみました。
感想と勉強になったことを書いてみます。
Web2.0というのは、マーケティング用語で、新しい技術の呼び名ではないそうです。
7つの原則というのがあって、著者が一言でまとめたうち、2つを抜粋します。
1.パソコンで使う全てのものがWebで提供されるようになる
2.「3万人の文殊様」と腕自慢の積極的な参加
リアリティのあるのは、2.です。
「三人寄れば文殊の知恵」を出す人が×1万倍、というかたくさんいて、みんなで意見を出しあう、というより、たくさんの人がアクセスした情報を提示することです。
売れ筋ランキングは昔からありますが、ネットワークの書籍等販売店アマゾンを例にとると、特徴的なのは「この本を買った人は、こんな本も一緒に選んでいます」という紹介がついています。
これは、データを収集して、自動集計して自動表示するプログラムが走っているからできることなんです。
もうひとつの「腕自慢」というのは、ちょっとずれるかもしれませんが、身近なのは「フリーウェア」「シェアウェア」でイメージできる、使えるプログラムを作れる人たちのことです。
1.で言っているWeb2.0の環境は、そんな人たちの活躍の場になりやすい、ということのようです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
で、じつはこの本では、Web2.0て何?という説明より、Web2.0ってわかりにくいでしょ、それは実態がないからで、これで利益誘導している影の力を感じるから、バブルと一緒で、踊らされないように、というアラームをだしているのでした。
Web2.0企業だから(株が上がって)伸びる、とか、
Web2.0対応システム(ソフト)だからすばらしい、から買おう、とか、
Web2.0での検索エンジンだから、答えが正確だとか、
よーく、見て、考えて、行動に移るようにいたします。
著者はサービス精神旺盛で、プロの視点とユーザー視点両方からよく研究していて、mixiyや、ブログについてもたくさんの情報を提供してくれています。ブログをもっているものとしては、おもしろかったです。
(1)「立ち上げてみました」ブログが半分以上なんですね。
3ヵ月たって(ひとつでも記事を)更新するブログは45%だそうです。
(2)Googleなど検索エンジンは、gooを除いて、ブログ記事(=素人記事)もひっかけてくるので、キーワードがひっかからないことが多いそうです。
(3)しかも、素人コンテンツですから、
「ビジネスで役立つコンテンツ」を作る3つの技術
・お客さんの知りたい情報を把握する
・お客さんにわかりやすく伝える
・「発注」したくさせる
に欠けていて、かつ、「集客」もできないので、ビジネスにつながる可能性があまりない、と指摘しています。
この感想を書いていて、営業を生業(なりわい)としている私として、思い出しました。
上記の3つの技術、営業の基本でした。そう、商売の基本でした。
これが簡単にできたら、みんな大もうけです。
そんなはず、ないですものね。
まあ、というわけで、このブログ「人生のイロハ修行ちゅう!」は、これまでどおり、きばらず、読んだり使ったりしたものにたいして、私なりの「実感」を、アクセスしていただいた方にできるだけ失礼のないように気をつけながら、書き続けていこうと思いました。
「信長街道」3.凶暴にとられるのには理由がある [読書(エッセイ・コラム)]
信長が凶暴だというのは、お坊さんを含め老若男女とわず殺してしまった比叡山焼き討ちなどと、部下の扱いで言われることが多いと思います。
信長は一般に言われているように必ずしも冷たい、非情な男だった、とは限らないようです。現代の経営者も、リストラを初め多くの冷徹な判断を繰り返しています。それと変わりないようでした。
それでも比叡山焼き討ちという、いつの時代に誰がみても顔をしかめるような暴挙に出たのは、手を組んだヨーロッパ諸国から、早く、またはいついつまでに明に出兵せよという圧力がかかったのではと推測しています。
部下の扱いが冷たかったのは、目的を天下統一におく合理主義者であるだけでなく、2歳で両親から引き離されて育ったための、現代でもよくある、幼少時の親の愛情不足からくるストレスでは、と分析しています。
この著書ではそのほか、武士の時代の経済力をあらわす、米の収穫高「石高」以上に、織田信長と父の信秀は、名古屋近辺で貿易などの経済活動を盛んに行い、財政を豊かにしていたと説いています。
これほど有名な人物ですが、家康と違いこれまで腑に落ちる生涯の説明を、なかなか聞けずにいたので、読後感がすっきりでした。歴史はいろいろな説がでるもので、著者の推測がすべてあたっているかどうかは、ともかく、充分ありうる話しだと思います。