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防災対策庁舎屋上で津波の下に3分いた宮城県南三陸町長佐藤仁さん [新聞記事に]

~防災庁舎屋上でも流された 町内に家建てるため融資を~(朝日21日朝刊)

宮城県南三陸町長 佐藤仁さん



まず、ご自身もほとんど流されそうになったという、地震と津波の体験です。
そして、これからのことが書かれています。

その時、議会で、数日前の地震対策を語っていたそうです。

 地震が起きたときは、議会中でした。閉会のあいさつで、数日前に起きた地震を挙げ「これまで以上に災害に強い町づくりをしましょう」と話していたときに。
 すぐに役場の隣にある3階建ての防災対策庁舎に移動しましだ。震度6弱と確認して間もなく、大津波警報が発令され、午後3時に6㍍の津波が来ると一報が入りました。津波の到達まで、残り10分ほど。高台に避難するよう、防災無線を通じて町民に知らせました。


そして、命からがらしのいだことが、これまで私が見たどの文よりはっきり書かれていました。

   屋上に上がり、海を見ました。まずは水ではなく、真っ黄色の土煙がパーツと舞い上がったんです。その後を追っかけて波が来る。局さ8㍍ぐらいある防潮水門よりはるかに高い波が、とんでもない速さで来た。
津波は家を次々になぎ倒し、すぐに役場も倒壊しました。
 屋上には30人前後がいましたが、津波で一気に飛ばされました。私は屋上の階段のところに飛ばされ、階段の手すりにしがみつきました。3分ぐらいは頭の上を波が超えていたと思います。2、3秒おきに頭が水の上に出る。その間に息をフツと吸う。紙一重ですよ。
 波が引いたときに残っていたのは、10人だけでした。第2波からは屋上にいてはダメだと、みんなで屋上に立っているアンテナに登りました。全身ずぶぬれで吹雪だったので、寒かった。
 波が収まってから、ライターでネクタイや流木を燃やし、一晩過ごしました。翌朝、壁がなくなりほぼ骨組みだけになった防災庁舎を、庁舎に絡まった漁網のロープで下まで降り、近くの小学校に向かいました。そこで、自分が安否不明者だったことがわかったんです。
 この服はあの日、津波をかぶったときに着ていた服なんです。着たきりすずめで、着替えがないんですよ。


町長は、避難所を支援してくださっている全国のみなさんに、本当に感謝したい、とおっしゃっています。
けれど、毛布以外、とくに食べ物はいくらあっても足りないくらいだと。

 今回の津波被害は、町の防災計画をはるかに上回る41人の死者を出した)1960年のチリ地震津波をペースにしています。
 宮城県沖地震が起きたときに、起きる津波の高さの想定は6・5㍍だったんですよ。申し訳ないけど、これはどの大災害が来るなんてことは、一人として思っていなかった。いま、町の人口の約半分の1万人弱が避難所生活を送っていて、毎日増えています。全国のみなさんの支援には本当に感謝したい。涙が出る。見ず知らずの町にたくさんの支援物資を送ってもらっている。こんなうれしいことはありません。
 ただ、毛布を除き、ほとんどの物資は足りていません。少なくとも3食は食べられる状況にありますが、食料は毎日必要なものなので、率直に言って、いくらあっても多いということはないですね。
津波の被害にあっていない家庭の方々も買い物に行くことができません。避難所に来れば食べ物があるので、避難して来る人もいます。避難所生活を送る人だけでなく、町民全員が避難民だと思っています。そういう捉え方をしないと、物資や配給の仕方が偏ってしまいます。


町の再興が避難所から始まっていること、それでも、山形から話の来ている疎開まで考えなければいけない状況だということをおっしゃっています。

 ありかたいのはヽ避難所ごとに自治組織が出来ていることです。それぞれにリーダーがいて、1日の行動を決めて活動している。自分かちで炊飯をするようなところもあります。これまで行政ではなく、住民主体で町づくりをしてきたので、そういう人たちがうまくやってくれています。我々はそのサポート役です。
 ただ、町の再生は大変厳しい。例えば、津波で倒壊した役場をどこに建てるのかという問題があります。山を削って高台に造れば安心だという町民もいますが、あの津波に流された更地をどうするのか。もう一度道路を造り、区画整理をして建物を造てたとしても、2、3人しか帰って来なければ、町としての機能は成り立ちません。
 そもそも町には高齢者が多く、お金をかけて新たに家を建てることができるのかということもあります。造路や造物、インフラなどハードの部分はお金をかければやれます。でも、こういう災害を受けて、なお、ここに住むかどう力という心の問題は、私たちではどうしようもないところがあります。
 町の地盤が沈下しているという話も聞きました。これからの町のグランドデザインに取り組んでいかないといけませんがまず現状を把握しないと描けません。
 町外、県外へ出ようという町民も出てくると思います。村井熹浩・宮城県知事が県民を他県に一時的に疎開させることを検討していると表明しましたが、実は町にも、友好町である山形県庄内町から、疎開を希望する人を受け入れるという話がきています。基本的に移住の選択肢も町民にありますが、我々としても疎開について前向きに取り組まざるを得ないというのが現状です。



いま思いつく国への支援依頼は、自宅再建の際の融資だそうです。
村井宮城県知事も「300万円では足りない」とおっしゃっていました。
そして、収入につながる、仕事の問題も、自分たちだけではできないだろうと。
継続して支援してほしいということでした。


 いま我々職員がやっていることは避難所対策で、それ以外のことはできていません。いつまでも避難所で生活している1万人弱の人たちを抱えていたのでは、先に向かって進むことはできません。職員が36人も行方不明という状況もあり前に向かって考えていく時間がないんです。
 今思いつくなかで国の支援をお願いしたいのは、被災した人が自宅を再建する際の融資です。仙台あたりでアパートに入って家賃を払ったほうが楽だということではなく、町内に家を建てた方が良いということを出さないと、町外に人が出て行ってしまう
 スムーズに融資を受けられる住組みをつくってもらえないだろうか。そうでなければ、町として本当に危機的な問題になります。 
 そして、現実問題としては収入がないことがあります。会社勤めの人は、仕事場が流れてしまっている。自営業、漁業、農業の方々も仕事の場所がなくなってしまった。貯金がある人は何とかなるかもしれないけど、この状況下でしのげる人は、そう多くはないと思います。
 我々は長丁場でやっていかないといけませんが、町だけではどうしようもない問題です。継続して支援していただけることが、我々にとって一番ありがたいです。


町長は、「前を見るしかないんです」としめくくっています。

 約50年前にチリ地震津波の被害を受けてから、町づくりを進めてきました。県の観光キャンペーンで一番、という評価を受けたこともある。それが一瞬にして倒壊してしまった。当面は復興第一、それしかありません。
 起きてしまったことはしょうがない。この現実からは逃れられません。でも、後ろは向きたくない。私が前を見なかったら、町のみなさんも前を見られない。前を見るしかないんです。
  (聞き手・篠健一郎)


宮城県知事に続いて、これまた、町長の経歴は頼もしい。

 51年生まれ。仙台商高卒。旧志津川町議、志津川町長をへて、05年から現職。現在2期目。 69年の全国高校野球選手権大会に出場し、ベスト8.


おお、あの暑い夏を何試合も経験しているのなら、きっと乗り越えられる、そして、私も、微力ながらそれを応援していきたいと思います。



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