三国志_宮城谷版_曹操と劉備の兵法から [読書(小説)]
第5巻では、いったん曹操に泣きついた劉備がこんどは反旗をひるがえし、曹操が劉備と戦います。
曹操と劉備の兵法の違いを、著者は下記のように書いています。
劉備は学問ぎらいであり、最高の兵法書といわれている『孫子』も読まなかった。
兵法書の語句にとらわれると、発想が生気を失い、戦術が硬直する、と信じていた。
(略)(過去のある歴史から)兵法書は実戦にはかえって害になると劉備は頭から軽視した。
一方、曹操は『孫子』を誦読し、註を付すことができるほど精通していた。
それゆえ劉備は兵術において曹操におよばなかったというのは早合点であり、みずからを解放するところまでやってこそ真の学問であるという体験をしなかったことで、劉備は学問蔑視にとらわれてしまったといえる。
書物にとらわれないようにすることに、とらわれてしまったといいかえることができる。
したがって劉備の兵術は我流であり、法がないために、法を超えた法、というような兵術の極意に達しようがなかった。
「とらわれない」ということに「とらわれる」ことのないように、という考え方は、導引術の早島正雄氏が
「体を整える「気」のすべて」
体を整える「気」のすべて―心身の不調を解消する驚異の「導引術」
- 作者: 早島 正雄
- 出版社/メーカー: 日本文芸社
- 発売日: 2003/04
- メディア: 文庫
の中の、静坐法という心のイライラを静める方法を紹介している項に、そのコツとして書いていることと近いようです。
健康法のコツと、真の学問と、兵法が同じ考え方、というのは、非常におもしろいですね。
また、ある兵法(この場合は「弓」)にとらわれなくなると、どのような心境になるか、どのような結果になるか、中島敦さんの「名人伝」はそのことを題材にかかれています。
弓を極めた名人が、弓の存在すら忘れますが、あたかも弓をいつでも射ているかのように、盗賊は弓をうたれたかのように感じて忍び込めず、鳥は上空を避けて通るのです。
これらは、「老子道徳経」第48章が言い表しています。
学を為せば日々に益し、道を為せば日々に損ず。これを損じて又た損じ、以って無為に至る。無為にして為さざるはなし。
「学を為せば日々に益し」:知らないことを知る、気づかなかったことを気づく
「道を為せば日々に損ず」:その学んだことにとらわれなくなる
こういうふうにも読めます。
こうして自然体の大きな気、あの人は英雄だとか、大物だとか、社長の器だとか、いわれる雰囲気にたどりつくのではないでしょうか。
とすれば、人が何かに対して精一杯努力することが、その途中で結果がでなくても、もっともそのもとの目的にかなうでしょう。
努力している道中、その結果にとらわれない心境が大切だだとするなら、現代社会でよくいう「目標と結果」だけに注目するという考え方は、なんだか最高の結果に達するには、弱いように感じます。
話を宮城谷さんの三国志に戻すと、前のブログで曹操が「兵書読みの兵書知らず」と表現したのは、兵書に書かれた一部を使うだけでは、存分に兵書を理解しているとは言えず、それを自在に使う自分に達して、はじめて書が生きる、ということを表現しており、この第5巻の説明と対をなす部分でした。
学ぶこと、実践すること、生きること、
大きな気にむかって、心を豊かによりよく生きていくには、努力することととらわれないことが、両方必要なのだと、あらためて歴史小説から思いいたりました。
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