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名人伝…努力して強い名人になった後、どうなる? [読書(小説)]

中国小説集

中国小説集

  • 作者: 中島敦
  • 出版社/メーカー: ランダムハウス講談社
  • 発売日: 2007/06/02
  • メディア: 文庫


中島敦の「名人伝」では、やはり中国の昔の弓の名人が、老師について修行をした後、弓を射なくなり、それでも盗賊は襲わず鳥は家の上を通らなくなる、という故事が紹介されています。



九年たって山を降りて来たたとき、人々は紀昌の顔付の変わったのに驚いた。

以前の負けず嫌いな精悍な面魂は何処かに影をひそめ、何の表情も無い、木偶の如く愚者のごとき容貌に変わっている。

(略)都は、天下一の名人となって戻ってきた紀昌を迎えて、やがて眼前に示されるに違いないその妙技への期待に湧返った。

 ところが、紀昌はいっこうにその要望に応えようとしない。いや、弓さえ絶えて手に取ろうとしない。

(略)至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。

(略)紀昌の家に忍び入ろうとしたところ、塀に足を掛けた途端に一道の殺気が森閑とした家の中から奔り出てまともに額を打ったので、覚えず外に転落したと白状した盗賊もある。

爾来、邪心を抱く者共は彼の住居の十町四方は避けて廻り道をし、賢い渡り鳥共は彼の家の上空を通らなくなった。

(略)実際、老後の彼についてはただ無為にして化したとばかりで、次のような妙な話の外には何一つ伝わっていないのだから。

(略)或日老いたる紀昌が知人の許に招かれて行ったところ、その家で一つの器具を見た。

確かに見憶えのある道具だが、どうしてもその名前が思い出せぬし、その用途も思い当たらない。

「(略)ああ、夫子が、-古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや?

ああ、弓という名も、その使い途も!」

 その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は質の絃を断ち、工匠は規矩を手にするのを恥じたということである。



弓を極めると、弓がわからなくなるなんて…
極めるまでにずいぶんと力を入れてきたことが、無駄になるとは。

どう思います?これ?

だけど、武術とはジャンルが違いますが、先日のボクシング元世界チャンピオン、渡辺二郎が恐喝で捕まったのを聞くと、強くなって戦うことだけで生き抜くことは、意味のあることなんだろうか、と思ってしまいます。

剣豪宮本武蔵は、その正体は実はほとんどわかっていなくて、小説家の吉川英二氏が残された少ない事実と想像力を駆使して、いま多くの人が思っている人物像をつくりだしたのです。

しかし、宮本武蔵の画は確かに実在していて、その中の「枯木鳴鵙図」は、枯れた、しかしずいぶんと高い一本の木の上から、鵙(もず)が地面を見下ろしている画です。その鵙(もず)の眼光と木の枝が、剣豪を思わせる筆さばきで描かれています。

「枯木鳴鵙図」で武蔵は、達観した心境で、戦うことを一段上から静かに見下ろしている、と言われています。

この心境に達することは、きわめて難しいのかもしれませんが、達人だけが見た境地が多くここにあるのなら、それはすなわちそれまでの道のりは「無駄」ではない、と言えないでしょうか。

そういえば、恐喝で一緒に捕まった羽賀研二も、サムライの親分まで上り詰めた人でした。

征夷大将軍  … もとい … 誠意大将軍 … 自称

懐かしいネタで…


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