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囲碁界最後の世襲制『名人』本因坊秀哉から、現代方式に向かう一局をドラマチックに描く [読書(小説)]

川端康成の『名人』は、世襲制だった囲碁の名人位を退く、最後の名人、本因坊秀哉が、命を削ってまでも芸道を外れない心意気で、対等というなのルールを背負った新世代の最強棋士、大竹七段(実際には木谷実七段)との7ヶ月にわたる一局を、そのはじめから終わりまで、観戦記者という立場で棋譜の動きまでつづった、異色の野心的な作品でした。

一局の囲碁はドラマだと聞くことはあっても、ここまでドラマらしく書き綴った物語は、そうないでしょう。

あらすじ



世襲制だった囲碁の名人位を退く、「不敗の」最後の名人、本因坊秀哉。
時代は昭和13年、戦時色が少しずつ濃くなるころでした。

あくまで芸にこだわる名人は、しかしその生きてきた観衆から、やれ滝の音がうるさいから対局する宿を変えろとか、聞いてないから一度家に帰る、とか、わがままを言って周囲を振り回し、気を使わせます。
そんなことで不公平が出てはたまらないと考える大竹七段、ルールにこだわり、何度も反発し、一時は放棄するというところまでいきますが、浦上観戦記者の仲介で、最後までうつことになりました。

勝負が中盤にさしかかるころ、おそらく名人が時間に縛られないように、負担にならないようにと提案しただろう、5日ごとの対局、一日4時間、持ち時間40時間(普通は10時間くらい?)というのが、元気な大竹七段が体力にものをいわせてたくさん時間を使い、名人は待ち続けることがおおくなります。

それが、やがて、名人の体を蝕んでいきます。

しかし、途中で投げることは芸に反すると考える昔ながらの名人、身を削りながら対局を続けますが、ついに勝負どころで、大竹七段のルールをうまく使ったかのような、封じ手(次回の第一手をあらかじめうっておき、間の日で考えられないようにする方法)に腹をたてます。

そこで反発心が裏目に出たかはわからないのですが、直後の大竹七段の一撃をうっちゃって、ほかを攻め返している間に、大きく地が減ってしまい、それが敗着(負けの決定的な一手)となったのでした。

こうして、「不敗の名人」は最後に負け、1年半後に他界します。
その後10年余り、名人位をどのように扱うか、決まらない、それほど時代の申し子だった名人は、強烈な印象を残して去っていきます。




小説を読み始めて、なかなか対局が始まらないし、最初は遺体の顔写真の説明から入ったりして、おどろおどろして読みにくいのですが、時代や囲碁界の状況を説明する部分なので、さっと読み飛ばしてあとから最初のほうだけ読み直してもいいかもしれません。


名人 (新潮文庫)

名人 (新潮文庫)

  • 作者: 川端 康成
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1962/09
  • メディア: 文庫



はじめはのんびりした打ち染め式から始まった一局しかし、大竹七段は、新世代の代表として、勝たなければならない立場にありました。

普段はどちらかというと変化に富んだ碁をうつ大竹七段が、序盤から中盤にさしかかるところで

「黒47と堅く打って(おかねば)、そこに白からの手段が残るのをきらった」

これを観戦記者としての筆者は、

「棋風を感じたというよりも、七段のこの勝負に臨む覚悟を感じたようだった。」

「大竹七段の渾身の力がこもっていると見えた。七段は絶対に負けない打ち方、相手の術策に陥らない打ち方に、足を踏みしめていたのだった。」

ぽちぽちと、棋譜の  >(右矢印)   マークを押してみてください。
黒47から白66まで動きが見られます。



そして、後に「鬼手」とよばれる、会心の一撃を放つ、大竹七段。

このまま進めば、戦局が大きく大竹七段に傾きかけない一手でした。


大竹七段には、五日前からの狙いだったのだろう。
今朝の打ち継ぎに、七段は逸る心をおさえて、また20分ほど読み直したが、その間にも体は力が漲って来て、ひとりでに強く揺れ出し、盤の方へ一膝乗り出していた。
黒67に続いて、黒69を強く打ちおろすと、
 「雨か嵐か。」
と言って、高い笑い声を立てた。
この一手に、名人はめずらしく表情まで反応します。
黒69の苛辣な攻撃は、名人も予期しなかったらしく、その応手に1時間と44分苦慮したのだった。
名人にはこの碁が始まって以来の長考だった。
名人は黒69を見て、ふっと鳥影を見たような顔をした。
ひょいととぼけて、愛嬌を出したような顔をした。これだけのことも、名人にはめずらしかった。
黒69は匕首のひらめきであったらしい。
すぐ名人は沈思にはいった、昼休みの時間が来た。
それを、名人の名人たる本領を発揮、やはり後に「凌ぎの妙手」と呼ばれる一手を返します。 ぽちぽちと、棋譜の  >(右矢印)   マークを押してみてください。 途中で白が一気にとられます。 これが、「難を避けて、傷を捨てて身軽になった」判断だったのでした。 こうしなければ、もっと大きな難になっていたのです。
しかし、昼休みの後、名人は坐るか坐らぬうちに、白70を打った。
黒69が攻めの鬼手だったとすると、白70は凌ぎの妙手だったと、立ち会いの小野田六段なども敬服していた。
名人はここを忍んで、急を凌いだのだった。
名人は一歩譲って、難を避けたのだった。打ちづらい名手だったのだろう。
黒が鋭い狙いで切り込んだ勢いを、白はこの一手でゆるめた。
黒は力んだだけのものはとったが、白は傷を捨てて身軽になったとも見えた。
7月16日、勝負は白熱し、そして、中盤にさしかかります。 若い大竹七段は、体力とルールにものをいわせて、時間を使って考えます。
黒83は、白70の1時間46分を超えて、1時間48分の長考だった。
七段は両手を突いて、座蒲団もろとも一膝さがると、盤の右辺を見つめた。
またやがて、懐手をしては、腹を突っ張った。
七段の長考の前触れだ。 碁も中盤にさしかかって、このあたりは一手ごとに、むずかしいところだった。
白と黒との分野がほぼ明らかになって、確かな目算はまだ立たないが、その確かな目算の手前までは来ていた。
このまま寄せにはいるか、敵地に打ち込むか、あるいはどこかで戦いを挑むか、一局の大勢を見て、勝敗を判じ、それによって作戦をねる時であった。
そのうち、つらさなどを態度に表さない名人が、つらそうなそぶりをはじめて見せるのでした。
しかし、黒が83を打ったとき、名人は待ちかねていたように、いきなり立ち上がった。疲れをほうっとまる出しにした。
12時27分だから、当然昼休みとなる時間なのだが、名人の投げ出すような立ち上がり方は、これまでにないことだった。
7月31日の時点で、名人は数えで65歳だった。 しかし、なにか、もっと年齢がいっているような、悲壮な雰囲気がただよったのか・・
(7月31日の)封じ手となったので、八幡幹事は早速言った。
「先生、米寿のお祝いですね。」
名人はもう痩せようのない頬や首が、さらに痩せて見えた。
けれども、あの暑かった7月16日よりは元気で、肉が落ちて骨が張るとでも形容するか、意気軒昂としていた。
8月10日、ついに名人は体調が悪化、お昼休みを一時間延ばし、医師の診察を受ける。
名人本局中の長考、2時間七分「白88の封じ手を開き、大竹七段の黒89が10時48分、そうして名人の白90の手は、正午を過ぎ、1時半近くになっても、まだ決まらなかった。
病苦に耐えながら、実に2時間7分の大長考だった。
その間、名人は姿を崩さなかった。顔のむくみはかえってひいて来た。
ついに昼休みとすることになった。 
いつも1時間の休憩が今日は2時間で、名人は医師の診察も受けた。
この日は、これで打ち掛けとすることになった。 さすがに、名人は大竹七段に申し訳ないという気持ちだった。
「昼休みのあと、対局室へもどるまでに、名人の白90の封じ手は決まっていた。
「先生、お疲れ様でございました。」
と大竹七段の見舞いに、
「勝手ばかり言ってすみません。」
と、名人は珍しくわびて、打ち掛けとなった。
そしてついに、次の8月14日の対局を持って、3ヶ月にわたって、この対局は中止される。 次の対局日は8月14日であった。
しかし、名人の衰弱ははなはだしく、また病苦がつのって、医師も手合いを禁じ、世話人たちは諫止し、新聞社も断念した。
14日は名人が一手打っただけで、この碁を休むことに決まった。
11月、体力が打てるまでに回復した名人は、再び大竹七段と対局の打ち継ぎをする。 この間、両者ともこの3ヶ月を使って、対局の研究をするということはなかったそうだ。 しかし、、、 再開21手目の封じ手で、大竹七段は、対局と対局の間の3日間を、一番難しい局面(右下)の結論を考える時間にあてられるような、どうでもいい場所にうって、時間をかせぐ作戦、と取られそうな封じ手をしていたことが、その3日後にわかる。 芸道を大切にし、そのためにつらくても打ち続ける名人は、この作戦(?)についに憤る。
「この碁もおしまいです。大竹さんの封じ手で、だめにしちゃった。せっかく描いている絵に、墨を塗ったようなものです。」と、小声だが、激しく言った。
「あの手を見たときに、私はよほど投げてしまおうかと考えた。これまでという意味でね……。投げた方がいいかと思った。しかし決心がつきかねて、考え直しました。」
「その日の最後の手がむずかしい場合、間に合わせに黒121のような手を打っておけば、3日後の打ち継ぎまでに、今日の最後に打つはずの手を十分調べられるわけだ。」
こんな気持ちのまま、大竹七段に勝負手をかけられた。
(大竹七段は、)遂に白地の中へ切りを入れた。
(略)ところが、名人は黒の必死の切りをうっちゃって、そこを手抜きして、右辺に逆襲をして、黒の出足を押さえた。
私はあっと驚いた。
やられたらやり返す。 そんな気迫ともとれるのですが・・・
(略)あるいは、自ら傷ついて敵を倒す、相打ちの激しさを求めたのか。
(略)勝負の気合いというよりも、なにか名人の憤怒の一手かと思われるほどだった。
(略)白の運命の一手は、名人の心理か生理の破綻かもしれなかった。
強い手とも渋い手とも見える白130は守り続けの名人が攻めに出ようとしたのかと、その時、素人の私には思えたが、また名人が堪忍袋の緒を切ったか、かんしゃく玉を破裂させたかのような感じも受けた。
ところがこの一手も、白から黒に切りを一本入れておけば、それでよかったのだという。
この判断ができなかったところが、体力や気力を含めた、負け、だったろうということなのです。
この白130敗着は、大竹七段の封じ手に今朝から名人が憤怒した余波では、おそらくあるまいが、しかしわからない。名人自身にだって、自分の心の内の運命の波や通り魔の風はわからない。
時代のながれ、ともいえるかもしれません。 そして、その時代の流れと同じように、黒石の軍団が、たてにつっこんできて、白陣は音を立てて崩れます。
黒129と切った、白の三角のもう一方を、黒133で切って、三目の当たり、それから黒139まで、当たり当たりと、ぐんぐん一筋に押して、大竹七段のいう「驚天動地」の大きい変化が起きた。
黒は白模様の真っ直中に突入した。
私はがらがらと白の陣の崩壊する音が聞こえるように感じた。
その動きを > ボタンを押して、雰囲気を味わってみてください。 そして、終局を迎えます。 負けが決まっていた名人でしたが、最後まで燐とした態度を崩さない強さをみせたのでした。
この碁のような大勝負では、終局に近くなると、むごたらしくて見ていられないと、私は聞いていたが、名人は動じる色がなかった。
200手当たりから名人も頬が赤らみ、首巻きも初めてはずし、迫った気分だったが、姿勢は凜と崩れなかった。
むしろ周囲のほうが、目をそらさずにはいられませんでした。
手止まりの時は、もう名人は静かだった。そして無言のまま駄目を一つ詰めた瞬間に、小野田六段が
「五目でございますか。」
「ええ、五目…」と名人はつぶやいて、はれぼったい瞼を上げると、もう作ってみようとはしなかった。
終局は午後2時42分だった。
こうして、「不敗の名人」は引退の碁をで負けて、その1年半後には、この世までを去るのでした。 ちなみに私は囲碁は始めたばかりで、この対局の内容のおもしろさなどは、ほとんどといっていいほどわかりません。 smile_aceさんというハンドルネームの高段者の方のホームページに、ちょうどこの碁の解説ファイルが載っていましたので、ご参考に掲載させていただきます。 smile_aceさんのホームページの『名人』紹介記事です。

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