社会人から始めた囲碁で身に着けたかったこと [囲碁]
囲碁を学び始めてから、3年くらいたちます。
棋力はまだ10級くらいですが、気にしていません。
それより、日々とはいいませんが、週一くらいで
「以前イメージできなかったことができるようになった」
「記事の意味がわかるようになった」
という変化を楽しんでいます。
それというのも、私は息抜きで囲碁を始めたのではないのです。
営業という、勝ったり負けたりがはっきりしている勝負の世界で、どうも勝ち負けが苦手な私でした。
大学時代に麻雀をやっても、手の美しさばかりに気が行ったり、うまく行かなければどうしようと思ったり、
負けて熱くなったり…
これは、勝負事には向かないなと、麻雀はやめたくらいです。
しかし、社会はそうはいかない、日々勝負が待っている。
そんな環境で、自然と勝ったり負けたりする感覚を身に着けるにはどうしたらいいのか…
ひとつが、囲碁でした。
囲碁なら強い人が勝つ。アマチュアとプロがやればプロが勝つ。
でも、ハンディをつければ、強い人と弱い人が、対等に戦える。
そして、勉強方法があるので、強くなっていくことができる。
そんな風に思って始めたのですが、どうも正解でした。
地が多いほうが勝ち、けれど、地を多くしようとばかりしていると、形が崩れて、あっさり奪われてしまう
自然に振舞うこと、相手が上を取ったなら、自分は下を取る…
たとえ損に見えても、形をしっかり整える。
なんだかそんな風に、たんたんと着々と進めていって、強い人が勝ち、ハンディがあれば、欲張ったほうが負ける
どうもそういうゲームのようです。
営業も同じだと、今でも思っています。
足早に地(売り上げ)を稼ぐことも、頭から離れてはいけませんが、相手の意向を感じ取ったら、それを譲って、違うところで勝負する心のゆとりも必要です。
そうでなければ、すばやさとすばやさだけの勝負になります。
囲碁はもっと大きい。相手にゆずるところは譲って、自分のスタイルを、または自然に貫いた人が勝ち、のようなのです。
早島妙瑞氏は、その著書「こだわらない、でも流されない」
で、
と述べている。
そしてまた、
とも。
勝負も、負けることも、好きじゃないけど、怖くなくなりました。
囲碁では、負けることで、勝つ準備ができるから。
棋力はまだ10級くらいですが、気にしていません。
それより、日々とはいいませんが、週一くらいで
「以前イメージできなかったことができるようになった」
「記事の意味がわかるようになった」
という変化を楽しんでいます。
それというのも、私は息抜きで囲碁を始めたのではないのです。
営業という、勝ったり負けたりがはっきりしている勝負の世界で、どうも勝ち負けが苦手な私でした。
大学時代に麻雀をやっても、手の美しさばかりに気が行ったり、うまく行かなければどうしようと思ったり、
負けて熱くなったり…
これは、勝負事には向かないなと、麻雀はやめたくらいです。
しかし、社会はそうはいかない、日々勝負が待っている。
そんな環境で、自然と勝ったり負けたりする感覚を身に着けるにはどうしたらいいのか…
ひとつが、囲碁でした。
囲碁なら強い人が勝つ。アマチュアとプロがやればプロが勝つ。
でも、ハンディをつければ、強い人と弱い人が、対等に戦える。
そして、勉強方法があるので、強くなっていくことができる。
そんな風に思って始めたのですが、どうも正解でした。
地が多いほうが勝ち、けれど、地を多くしようとばかりしていると、形が崩れて、あっさり奪われてしまう
自然に振舞うこと、相手が上を取ったなら、自分は下を取る…
たとえ損に見えても、形をしっかり整える。
なんだかそんな風に、たんたんと着々と進めていって、強い人が勝ち、ハンディがあれば、欲張ったほうが負ける
どうもそういうゲームのようです。
営業も同じだと、今でも思っています。
足早に地(売り上げ)を稼ぐことも、頭から離れてはいけませんが、相手の意向を感じ取ったら、それを譲って、違うところで勝負する心のゆとりも必要です。
そうでなければ、すばやさとすばやさだけの勝負になります。
囲碁はもっと大きい。相手にゆずるところは譲って、自分のスタイルを、または自然に貫いた人が勝ち、のようなのです。
早島妙瑞氏は、その著書「こだわらない、でも流されない」
で、
大切なのは
まわりの人がどう思うかではなくて
自分がどう生きたいか、だ
好きな道を行く
自分で選んだ道を行く
そんな人こそが
一流の人生を歩んでいる
と述べている。
そしてまた、
自然に生きること
そうすれば
まわりがよく見えて
おろかな失敗は犯さないようになる
とも。
勝負も、負けることも、好きじゃないけど、怖くなくなりました。
囲碁では、負けることで、勝つ準備ができるから。
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