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「地と模様を超えるもの―趙治勲の囲碁世界」冷静な観察眼は自身の世界にも [囲碁]

地と模様を超えるもの―趙治勲の囲碁世界

地と模様を超えるもの―趙治勲の囲碁世界

  • 作者: 趙 治勲
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 1999/10
  • メディア: 単行本

まだあまり囲碁をわかっているとはいえない私ですが、目的が大局観などを養うことなので、こういう囲碁の対局から一般世界をみようとする試みの本に、響くものがありました。

趙治勲(ちょう・ちくん)さんは、言わずとしれた囲碁の大家で、過去の本因坊10連覇などの数々の記録、というより勲章をもち、50代に入ってタイトル獲得のピークは過ぎたものの、囲碁のピークが過ぎたとはいえるかどうか、いまだに十段戦、NHK杯で優勝したり、その力は衰えたとはとてもいえません。

十年前の三大棋戦三連覇がすごすぎで、そのまえの三大棋戦すべて優勝から数えて十四年かかったっわけですから、たまたま今、囲碁の世界の流れに乗っていないだけで、また復活するのではないかと、何の根拠もないものの、そう思えてなりません。

この本で趙治勲さんがもっとも言いたいことの一つは、
プロトタイプ一面だけから棋士を、いや、世界をみるな
ということではないでしょうか。

それは、棋士の性質を1/0(イチゼロ)にわけてわかりやすくしようとするメディアや世間に対する警鐘でもあり、囲碁という陰陽の入り交じった混沌とした世界観にマッチする考え方だと思います。

陰陽の世界、その混沌とした世界は、たとえば
禍福はあざなえる縄のごとし
ということわざに現れているのではないでしょうか。

本の内容を紹介しますと、

シノギの碁と言われるし、確かにそういうことは多いが、反対の見方もできるものだと。

ある対戦で、ほとんど負けかけていた碁に対して、一カ所突破口を見つけて逆転したことがあった。

世間はそれを当然逆転の碁と呼んだが、それは果たして、最初からそこに打つべき手があって、有利だったのは最初から勝った趙治勲さんで、それを見落としていたら、逆転負けしていた、ともいえないだろうか、と。

碁打ちには、楽観派と悲観派にわけられると、NHKの月刊誌で読みました。
あの明るい梅沢由香里さんも悲観派だとか。
その分け方からすれば、趙治勲さんも悲観派でしょう。

なにせ、途中で形勢判断をしない、というのです。


高川秀格先生(二十二世本因坊)は、若い自分からかなり克明に形勢判断を行う人だったそうです。(略)
坂田栄寿先生(二十三世本因坊)は、(略)、ほとんど形勢判断をしない人です。

両巨頭、タイトル戦(番碁)で顔を合わせること十五回高川先生が勝ったのは、驚いたことにたったの一回だけでした。
(略)
では、どこで敗れたのか。終盤です。(略)形勢判断同様、高川のヨセは計算のヨセでした。一方、坂田のそれは計算はするけれど、むしろ手筋のヨセ。最後の最後まで戦いの要素を持続させ、一目でも二目でも得をしようとする、貪欲な手筋のヨセ。
(略)
となると碁には計算よりも大事なものがあると、このエピソードは物語っているかのようです。
(略)
趙治勲の場合を申し上げましょう。(略)まじめに形勢判断をはじめると、心理的精神的にうまくいかないのに気がついた。対局中にもまじまじと味わうのですが、これをやると人間がおかしくなってしまうのですね。簡単にいってしまうと、「凡」になる。「貧」になる。対局者として、凡庸かつ貧困、貧弱なレベルに堕していくのを感じてしまいます。
(略)
碁は自分の力量だけで勝てるものではありません。(略)では何かというと、月並みながら純粋な気持ちで盤に臨んでいる人にのみラッキープレゼントが降りてくるような気がします。

そして私の場合に限って、計算をすると、形勢判断を行うと不純になってしまうのですね。

少しいいのか、かなりいいのか、よさの度合いを量りはじめると、もっといけません。何か新鮮なことをやろうとする意欲が失われてしまうからです。

いや、その場その場で、いいと思うこと、わるいと思うこと、そのこと自体はいいのです。「これはよさそうだな」、「これは少し悪そうだな」と。

ただし、その一言、一行だけにとどめておくべきで、さらに自分に強く言い聞かせたり、それによってみずからを奮い立たせたりすると駄目。それがプラスになるタイプの人もいるのでしょうが。



ただし、そればかりではない、とも…
こういう陰陽両面を語る方なので、自分で言うとおり、プロトタイプにあてはまらない方なので、


三大棋戦七番勝負の第六局第七局
(略)そしてそういうときは、どんな勝ち方でもいい

形勢のいい中終盤にフルエがきます。碁を一気に決めにいくきびしい手段と、控えて堅実を期す手と二つあって、結局は後者のぬるい目の手を選んでいるのですね。
(略)
ただし、めったにない特別の碁。ふだんの対局なら前者の、一気に決めにでる手段を選ぶでしょう。



このエピソードからもわかることは、そして今でも現役最前線にいられるということが示すのは、これこそ月並みですが、いつも精一杯、ということではないでしょうか。

このいつも精一杯碁に臨んでいる姿勢が大切で、そこから得るものの膨大な積み上げがあるからこそ、本当に勝たなくてはいけない特別な勝負の時に、そんなときこそ必要な、堅実な碁が打てるのではないでしょうか。

こうだと簡単に決めてしまうと、その後考えるのをやめたり努力することをやめたりすることにつながり、その姿勢を崩してしまう、ひいては長い(碁打ち・人の?)人生マイナスになる、と。

これが、前書きに書かれている



碁打ちは碁だけを語れば、政治にも経済にも文化にも及ぶことができると、少年時代から信念がありました。世界が全部、碁というゲームの中に詰まっていると考えるからですが、あるいはこれは錯覚でしょうか。思い上がりでしょうか。



というメッセージへの、私なりの小さな「賛成!」です。

ご自身でもまとめられています。



どうやら、ほんの微妙な差が、事の成否をすべて分けているようです。

一局の碁がそうであるなら、人間社会はすべて微妙な差異で動いていっているのではないかと、長年碁だけをやってきてつくづく思います。

微妙な差の積み重ねが、大きな成果をもたらすのだから。

なんだ、それならいたって簡単なことではありませんか。日本人ならそんな話、昔から老若男女みな知っています。
-チリも積もれば山となる

何もむずかしいことはいわなくていい。確かにこの格言一つあれば十分でしょう。
チリは微妙な差のこと。
それを私たちは一生懸命考える取り組む
そのとき私たち自身が実はチリなのですね。
はなっから、偉い人間でもすばらしい人間でもない
でも続けていけば、そのうち大きな山偉い人間)ができあがるかもしれません。


さらにその哲学の如く、巻末にある歴代名人や棋士の評価は、賞賛一方の世間とは一線を画して、時代背景まで含めたいい面、悪い面を両方語ってくれています。これは、社会での人物評価にもつながるものがあるかもしれません。でも、これも控えめに結論づけていて、誰か一人のスーパースターがいることだけではなく、みんなが強くなることが、その世界を盛り上げていく、というような大きな観点で語られています。

碁打ちはおもしろいですね。
これからまた碁を学んでいくのが一層楽しみになりました。


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コメント 1

じゅうこ

囲碁って奥が深いんですね。
小さい頃はよく、オセロや五目並べやりました。
うちのダンナさんも最近囲碁にはまっているので、私も少しずつ教えてもらおうかなぁ~と思ってます♪
by じゅうこ (2008-02-15 22:43) 

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