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「信長街道」2.信長の海外好きと鉄砲 [読書(エッセイ・コラム)]

 他国に勝つために、イエズス会を通してポルトガル・イスパニア(スペイン)と手を結び、鉄砲の火薬や船の建造技術を手に入れる代わりに、いつまでに日本を統一し、さらに、当時の中国の王朝、「明(みん)」に出兵するという要求を呑んだのではないか、、、著者は大胆な説を唱えます。

 確かに、いくら信長が知略に富み、財力があっても、火薬や技術の供給元がなければ、長篠の合戦で武田軍団に勝った鉄砲(長縄銃)戦略や、瀬戸内海で毛利に対抗したガレオン船という「鉄の船」はなりたたなかったでしょう。

 また、時代はヨーロッパの国が、アジアにも植民地をさがしていたころで、ポルトガルはすでにマカオを植民地にしていたし、イスパニア(イスパニア)はフィリピン・マニラを手にしていたわけで、「明(みん)」にもまさに手を伸ばそうとして、日本の力を使おうと考えてもおかしくないというのです。

 現に、信長の後を継いだ秀吉が、明に出兵しますが、これは領土拡張だけではなく、ヨーロッパ、おそらくはイスパニア(スペイン)の植民地政策を手伝って、借りを返した、としています。

よく、ジャバラのエリをつけた、海外かぶれ風の信長の絵を教科書で見ました。あれも、鉄砲の火薬の必要から、徹底したすがた、だったのかもしれませんね。なるほど、ありえる話だ、と思わせて、楽しませてくれます。

あたってなくてもいいから、教科書にはこういう説明がほしかったなぁ。
そうすればほんとの「社会」の勉強になっていたと、いまさら思います。


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「信長街道」1.桶狭間の戦いでの勝因新説 [読書(エッセイ・コラム)]

「信長街道」(安部龍太郎著、新潮文庫)を読みました。

信長街道

信長街道

  • 作者: 安部 龍太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2006/09
  • メディア: 文庫

部分的に取り上げられることの多い織田信長の生涯を、新しい視点で説明してくれる、興味深い内容でした。
 これらのネタを、著者は「天下布分」で小説にしているようです。今度機会があったら読んでみようと思います。

1.桶狭間の戦いでの勝因新説
2.信長の海外好きと鉄砲
3.凶暴にとられるのには理由がある

1.桶狭間の戦いでの勝因新説
 桶狭間で今川義元の首をとった軍勢は、それまでの農民など他の職業とのかけもちではなく、日本初の専門軍団でした。

 ウツケと言われていた頃から、跡取がいなくならないことまで考えてか、武士の次男、三男などを集めて訓練し、またそこで長い槍の効果を確かめたのでした。

 狭い桶狭間で長く伸びた今川軍と戦ったときも、従来言われていた横からの奇襲ではなく、隊列の先を細くして対面する人数を絞らせ、正面から相対して、専門武士の強さを生かして勝ち進み、人数の差を逆転したという、とても戦略的で科学的な戦術をとったからでした。

 知恵をしぼってしぼって、戦略を練り上げ、軍事力を向上させ、最後に熱田神宮に祈る。
 この時代の武士の棟梁として、できることをすべてやった感があります。


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悪い評価はチャンス、これを大人が知ること [読書(エッセイ・コラム)]

 クビ・リストラになって、収入の当てがなくなる。
 家の人からも「甲斐性なし」とののしられ、すべての人に見捨てられる。
 そのとき、絶望するか、「次の仕事で今度こそ活躍したい」と思うか。
 少しでも活躍したいと思えれば、そうできるように、自分を高めようとする。

 さて、どうしたものか。
 少し引いて、冷静に自分と社会を眺めて見る。

 いつか、外の評価というのは、どんなに嫌で避けようとしても、厳然としてあることにに気づく。
 外の評価は悪い面が出れば、そのときの職(務)を失うが、それは、社内外で自分を適職に導いて
 くれるきっかけでもある。

 また、内(自分へ)の評価は、思い込みの自分にならない(わがまま、我執)ように気をつけながらも、
 冷静に見ることで、よい特徴が見える。

 それを生かすために、少々足りない点を補うのが先か、長所が延ばすのが先か、そういう戦略をたてる
 ことができる。

 それは、ビジネス書ではやりの戦略的思考などか、
 小難しく考えず、「おれはこの仕事が好きだから、がんばる」というのか。

 内外どちらの評価も冷静に受け入れ、また、社会の評価を結果的によくするには、
 自分への評価に基づいて、とりあえず方向を決めて、足をすすめていくしかない。
 そこらあたりにたどり着く。
 
 そして、大人がそう思えていれば、子どもも自然と
   「リカバリーチャンスあり!」
 と思えるのではないでしょうか。


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「悪い子」も「いい子」も社会問題 [読書(エッセイ・コラム)]

子どもは「正しく」教育されるか、「誤って」教育されるか、そのどちらかなのである。
(「家庭は最も大切な教育環境である」)

 「悪い子」は人生に負けたような錯覚を起こすから、昔はぐれたものです。
 ぐれるのは悪いことと社会が言うから、今は、迷惑かけないように引きこもるわけです。
 それなのに、引きこもることも悪い、と肩身の狭い思いをさせられる。
 これでは、身の置き場がないじゃないですか。
 
 自分の意に反して「いい子」になっている度合いが強くて、しかも攻撃的だと、
 親に隠れて他の子をいじめてストレス発散するようになります。
 親の評価が生きる絶対だから、親にばれなければ何をしてもいいわけです。

 中学生くらいになり、親をみくびると、さらに、悪いという感覚もなくなります。

 「いい子」のうち、性格が協調的だと、評価を得れば生きていける、と錯覚したりします。
 評価を得るためには、勉強で成績をあげるか、評価者によく思われるよう努力するか。

 ここでは、そんな「いい子」が会社に入ったときを考えてみます。

 「よく見える」ように努力しても、会社は本当の実績を求める。
 営業なら売り上げを、購買なら交渉結果の仕入を、設計ならいい製品を。
 評価が悪ければ、その職務に適正がないと判断する。

 人を育てる会社でかつ、本人に吸収力(というか謙虚さ)があると、能力にあう仕事に転属させる。
 人を育てる気のない、むしろ即戦力に多額の費用(給料)をかける会社は、適正がなければ
  若い人はクビ
  中堅以降はリストラです。
 早島正雄氏のいう「努力だけでは限界がある」ということですね。

 ここまでは、「いい子」が大人になったときの少し悲観的な分析をしてきました。
 しかし、こういった経験が、必ずしも悪く働くとは限らないから、人生は長い目で見る必要があるでしょう。
 これが、大人になってからリカバリーするチャンスだったりするし。
 また、大人がこのリカバリーを知っていることが、戻って次世代の子どもに希望をあたえると私は思うのです。


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オタクと、一流の芸術家や職人との違いはナンだろう [読書(エッセイ・コラム)]

「絶筆 日本人への遺言」を読みながら、生きる壁を考えるのに、観点を少し変えてみます。
 (ちょっと古い言葉ですが)オタクと、一流の芸術家や職人との違いはなんでしょう。

 紫綬褒章を受けた日本画の大山忠作さんが言っていました。
   「自分の書きたいものを勝手に書いてきた」
 それでも、多くの人がすばらしいと感じる作品を残しているからこそ、叙勲されているわけです。

 思うに、自分への評価が極めて冷静で、適切なのではないでしょうか。
 このコメントからして、自らが「勝手に」と感じられる基礎ができています。
 大山さんは、自分のしていることが他者から見て「勝手」なことだと感じられています。
 それでやっていこうという腹が据わっているから、生きるのに強いわけです。

 オタクは、社会が自分の価値をわかってくれないと感じれば、片目をつぶって、自分の中だけで、自分の価値を高めます。

 自分への評価の基礎がない上、改善できる自信も腹もないから、こわいのです。
 だから、うちにこもる。生きるのに弱いということです。

 社会に属しているのは充分わかっていて、その社会が受け入れないから、生きていけなくなるような錯覚を起こします。
 内外の評価、内外への観察がないか弱いから、後ろに向かっているのか、前に向かっているのかわからなくなって、足を前に出すのがいっそう怖くなっています。
 極端な話、勉強や、仕事や、社会生活でうまくいかないと、立ち止まってしまい、いずれ死ぬか、と思えてくるのかもしれません。
 
 この怖さからの逃げが昂じると、宮崎勤事件で書いた世界に入っていくのでしょう。
 もう他者は受け付けない。
 自分の思う美しい世界を追求し、善悪の判断がつかなくなる。

 これが壁の一例です。最後の例は特に極端な例です。

 この話は、大人になってからの話です。
 大人は、自分で脱皮して、自分を変えていく力があるはずです。

 次の記事で、子どもがどうずれを感じていき、それが大人になったときに修正できる方法を考えてみます。
 それを知ることで、いま、子どもを導けない大人に何が足りず、そして、大人がまさに自分の力で身につけることを、子どもに伝えることができるのではないかと、私は思うのです。


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評価で接する態度を変える大人 [読書(エッセイ・コラム)]

 「絶筆 日本人への遺言」から、人間評価を変える部分を取り上げます。
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 やるべきことは、偏差値教育をもたらしたこの社会の人間評価のパラダイムを変えることだ。

 人間には各人がそれぞれ天からもらった持ち味がある。
 それを昔は「福分」と言った。その「福分」に生きることを目指す社会にしようじゃないかというのが、教育のパラダイム転換のポイントである。
 
 「学歴」とは文字通り「学びの歴史」であり、
   その人が何を学んできたか、
   どこに旅して、誰の話を聞いたか、
   何度口惜しい涙にくれたか、
   何冊の本を読んだか、
   どれほど美しい詩歌に接したか、
 みんな「学歴」である。

  今までの人づくりのパラダイムは、ひとつの高い山をつくることを目指していた。
 これからは連山方式。
 低い山かもしれないが、それぞれの思いを達することのできる「福分」の山並みを作ることを目指す。
 それが「意味ある人」づくりということに他ならない。
(「意味ある人」をつくる)
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 →子どもははじめは、評価がわるくったって、べつに気にしない。

 けれど親や先生が「まわりよりいい評価になるようにがんばりなさい」という。
 競争をあおっているが、これは、別にいい。
 他人に負けまいとして生きることは、大事なことだと思う。

 しかも、あおるだけでなく、評価を接する態度に結び付けている。
 ここが問題だ。
 小学生くらいの純真な子どもは、いい態度で接したいから、評価がほしくなる。
 他者の評価、この場合は、学力という基準の評価が、生きる中心になっていく。

 学力の評価が唯一の尺度だと、勉強のできない子は評価が悪く、「悪い子」なのだ。
 助けてあげたいけれど、社会も校長先生も教育委員会もそう思っているから、手がかけられない。
 ただでさえ忙しいのに、自分の首を絞めることになる。
 だから悪い子にはかかわりたくない。
 手がかかるし面倒だ。

 評価のいい子は、「いい子」だから、いいいい、と手放しにほめる。
 「この「いい子」パターンで、生き抜いていける。」
 小学生高学年になり、中学生になるころには確信してしまう。
 本人もいつまでも、つまり人生を生き抜いている間「いい子」でいられるよう努力する。

 学力というひとつの基準でしかないのに、
  人生=(なにかわからないけどそのときの他者の決めた基準で)評価を得ること、で覚えてしまう。
 それではなにか違わないか。
 人生は、「福分」を精一杯開花させることに価値があるのではないか。

 評価がないと、いきる支えがなくなり、いつか生きていけなくなると思う。
 死んでしまう気がする。
 だから評価者に「よく見える」ように努力する。

 内外の評価の末、未来が感じられなければ、生きていけないじゃないか。
 怖い。ほんとに怖い。だからやっぱり目をそむけたくなる。
 どこかにすがって生きたい。生きる縁(よすが)を見つけたい。
 
 ここに大きな壁がある、と思うのです。


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評価とは、だれのためにあるのだろう:間違うのは悪いこと? [読書(エッセイ・コラム)]

「絶筆 日本人への遺言」より、評価のことを考えてみました。
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 糸川氏は、小学生に算数を教えていたことがあるが、できる子もでき
 ない子も、共通してたくさんの消し ゴムを持っていることに驚いた。
 よく観察をすると、彼らはすぐ消しゴムを使う。
 使いすぎるほどである。
 そのため、同じ間違いを繰り返す。
 (中略)
 いまは消しゴムではなく、リセットというボタンを押せば、一切の考えも
 方程式も計算も、いっせいにぱっと消えてしまうのである。
(糸川博士の「消しゴムなし」人生論)

 間違いも記録に残す。
 それが「学びの歴史」になる。
 間違えば口惜しいから次は間違えまいとして工夫し、振り返ると自分
 の間違うパターンも見える。
 
 けれど、間違うことが、他者からの自分の評価をさげる。
 これはおもしろくない。
 だから少しも間違えたくない。
 成功を積み重ねた人生を送りたい。
 
 この思いが、自分の肩にずしっとのっかってくる、と思うのです。
 そしてこれが、子どもたちの教育、もっといえば、戦後に切り替えられた
 教育のはざまで育ってきた、団塊世代から下の現代人にまで、
 影をおとしているのではないでしょうか。

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数年たって、追記です。

「囲碁を強くなるには、負けた方がいい」
宇宙流で有名な、武宮正樹九段はそういっています。
間違えたら、自分の打ち方を見直して、工夫するから~

囲碁が楽しく感じて、好きでないと、負けが込んだらやめちゃいます。


子供へも、「やめさせない=楽しく感じさせる」工夫を、今度は教える側や大人がしてあげれば、

 工夫を続ける→覚える

と結果がよくなります。

ということは、どうせ教え続けることはできない親は、楽しく感じさせるお手伝いをすればいいのです~

目の前の実利 ~テストなら次の点数~

にこだわらず ~「今勉強しなさい!」とどなるのではなく~

街を歩いていて、テレビを見ていて

「これ、どうしてかわかる?あの勉強したことなの」

と伝えて、興味を増やせたら…理想です。

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『絶筆 日本人への遺言』キレない子をつくるには、「気」「呼吸法」 [読書(エッセイ・コラム)]

『絶筆 日本人への遺言』(草柳大蔵著、海竜社)は、
ゆとり教育・キレない子供をつくるには、など、教育全般について、
人の生き方を深く洞察してきた著者が、絶筆として主にベッドの上で
書いたコラム集です。

絶筆 日本人への遺言

絶筆 日本人への遺言

  • 作者: 草柳 大蔵
  • 出版社/メーカー: 海竜社
  • 発売日: 2003/07
  • メディア: 単行本

「十年前の子どもたちとくらべて、前頭葉の形がちいさくなっていることが
わかった。
・・・
原因は・・・幼児期から「我慢」とか「忍耐」という、人間としての後天的教育を施されなかった。
・・・
前頭葉が血流をコントロールする機会を失い、(中略)その姿で学校と
いう集団生活に入るから自分にとって気に入らない状態が起きれば
キレるわけである。
・・・
社会に原因があるのではなく、「規律のない家庭」の産物なのである。」

「沖縄サミット・・・施設の再利用で・・・「前頭葉回復施設」に使え
ないかと思っている。
結論から言えば、私は小学校の低学年から「武道」を正科に持ち込み
たいのだが、
・・・
沖縄は空手のメッカである。
・・・
およそ武道に関するものの基本は「気」である。
具体的に言えば「呼吸方法」だ。
私は五十歳頃から導引術・・・を稽古して、呼吸術をどうやら
マスターしたが、この年になってなお、気持ちを落ち着けたり、
腰痛を治したりすることに成功している。
・・・
太極拳の達人と対談した。私が導引術の呼吸をしてみせ(中略)
「もう少し修業して、足の裏から息を吸い上げるようにしなさい」
・・・
足の裏から息を吸う。これは、白隠禅師の師の仙人、白幽子が言った
言葉と同じである。
沖縄の清浄な空気の中で、前頭葉の未発達な子どもたちが足の裏から
息を吸い、人間としてよみがえる。
それが二十一世紀の課題ではないか。」

草柳大蔵氏は、高校の大先輩であり、また、私と同じく導引術をやって
いました。

先日、野村監督がプロ野球選手の人間としての指導をするきっかけに
なったのは、草柳大蔵氏からの「本を読みなさい」というアドバイス
からだという記事を産経新聞で読んだこともあり、氏の著作を探し
たのです。

今回この本で、さらにどうやら隣の小学校らしい記述があり、
なんともご縁を感じたうえに、子どものキレるというこのブログでも、
とりあげているテーマがあり、食い入るように読みました。

親の心と行動が、キレる子どもの脳をつくってしまう。
それを、武術や導引術などの気、呼吸法で治す。

目指すところが見えてきた内容でした。


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『病(やまい)の神様』は親切丁寧 [読書(エッセイ・コラム)]

『病(やまい)の神様』(横尾忠則著・文芸春秋)を結構大笑いしながら読みました。

病の神様

画家の横尾忠則さんが、世界中を飛び歩き、そこかしこで突然悲鳴を上げる
体と対話しながら、病気や怪我にまつわるエッセイを一冊の本にまとめました。

きっちり10年に1回怪我をするジンクス、偶然お見舞いに来てくれた高倉健さんが
病室で倍賞千恵子さんと一緒になって、3人で新聞に載ったこと、健康サンダルを
愛用していた三輪明宏さんと意見があって大喜び、などなど、病気や怪我だけで
よくこれだけ話があるなと、横尾さんのまた違う才能に驚きます。

特に私が面白かったのは、マロンクレープの話。ミラノのスカラ座で、「ベルギー国立
二十世紀バレエ団」の舞台美術を担当するため、パリのシャンゼリゼで食事をしていたら、
激しい頭痛と高熱に襲われた。ところが、

「その時ふと、マロンクレープを食べたら直るような直感が働いた。」
ので、「食べないほうがよい」(と普通言いますよね)という奥様に

「マロンクレープが啓示のようにぼくの頭の中に降りてきたんだ!」
とわめいて買いに行かせるのでした。

「大好物である。食べたいという欲求がある以上、回復の兆しかもしれない」
「ペロリと食べたぼくは、(中略)あんなに頭がガンガンしていたのもぴたりと治まった。」

「体の中からエネルギーが湧き出し、逆にじっとしておれなくなった。」
「さあ、深夜映画を見に行こう」・・・「行かなきゃ死ぬ」

とまで回復してしまったのだそうだ。

「病気になると食欲がなくなるが、それでも食べたいものが、時にはある。
(中略)そういうときは何でもいい。好きなものを食べれば病気など吹っ飛んでしまうのである。」

(『甘いものは命の源』より)

横尾忠則さんといえば、このエッセイにあるだけでなく、寺山修二さんと野外パフォーマンスの
劇団を主宰したり、日本の前衛芸術の最高峰の方です。

思うに、体の声に素直なのではないでしょうか。だから、ちょっと痛いとか、ちょっとつらいとか
をすばやく感じ取って、病院にかけこんだり、長期入院することもあれば、「これで直る!」と
天啓のようにひらめくのではないでしょうか。

横尾さんほどの方ですから、そこらのサラリーマンとは比較にならないくらい働いていらっしゃる
のでしょう。病院の個室で元気になると、絵を描き始める方ですから。

だから、それなりに体に負担をかけていてあたりまえ。芸術への感受性と同じく、病をたくさん
感じ取り、体の声を無視せず、長期休養したりする生活があるから、さらに
「この本の題名に反して」そのパワーが増しているのでしょう。


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どんな苦しみも楽しみにする? [読書(エッセイ・コラム)]

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「この後、どのような苦しみが来ようが、あんたはそれを楽しんでしまうだろう。
そうなったら、もう人間としての修行は終わりなんだよ。上がりだ。」
(「死んだらすべて終わりですか(神様はいますか?)に収録」より、)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
これは、著者の田口ランディさんが、台湾の占い師に言われた一言です。

終わり、上がりは、もう死んでもいい、という意味ではなく、

「どんな苦しみも楽しみにする」ことを学ぶために生まれてきているので、

 =>学びきらずに死んだら、もういちど学ぶために生まれ変わる、
 =>学んだら、次は人間生まれ変わらないで、もっと違うかたちでやっていく?
   (動物、ということではなく、魂で、ということでしたが、魂って?というとこは割愛)

ということのようです。

田口ランディさんが、この言葉を信じているかどうかは、書いていません。
占い師の言葉を、そのまま記したものです。

「どんな苦しみも楽しみにする」なかなかこうはできないけれど、

 人生の選択肢が二つあり、楽しさ点がつけられたとして、51:49なら、楽しい51のほうを選ぶ

と思って、自分の意思で道を選択すれば、それは、楽しみを見つける、ということになるの
ではないでしょうか。

だけど、51点対49点(合計100点のうち)で、白組(?)の勝ち、ってのは、
  「両方はない!」
て割り切らないと、後ろ髪ひかれるよなぁ。
 「僅差の逆転勝ち」とか、野球の記事みたい。余韻を楽しむのが日本人だそうだし。。。


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